2024年8月 カリキュラム

「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受けつぐ」マタイによる福音書5章5節

リトアニアからアメリカに移住したユダヤ人家族が黒人スラム街で7歳の飢えに苦しんでいた少年を養子に迎え入れました。初めて親切にされ、優しく、温かく受け入れられ、家族の一員として楽器をもらいました。この少年は音楽の才能を伸ばし、プロとして世界中に名を知られるようになりました。ジャズの王様ルイ・アームストロングさんです。晩年の自伝でどれ程ユダヤ人家族に大切にされたか、感謝と尊敬の思いを記しています。そして亡くなられる時までダビデの勲章を身に着けていたそうです。

柔和である為には相手を受け入れられる力、与える事ができる力が必要ですね。

小雀保育園は1948年に賀川豊彦先生の著書「二羽の雀」の印税で創立されました。
賀川豊彦先生は「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と20世紀の三大聖人と称されていた方です。
ノーベル平和賞候補に4度、ノーベル文学賞候補に2度挙げられたほど世界的に認知された社会事業家の牧師先生でした。JA共済、生活協同組合など日本で労働運動や農民運動、貧困地区や困窮者を助ける組合や協会の発祥は全てと言ってよいほど賀川先生の影響があります。関東大震災の折には復興のための資金を西日本中を駆け巡り5000万円も(現在の価値で25億円)集めました。ボランティアの父として活動拠点を東京に移してまで尽力しました。自伝的小説「死線を超えて」は100万部売れた書籍です、生涯で200冊以上の執筆をなさりました。アメリカでの講演活動では延べ75万人以上の動員数がありました。ロサンゼルスを訪問し大歓迎された記念にカガワストリートが命名されました。終戦後民間人として初めてマッカーサーに会った人物であり、戦後直後で唯一の皇族内閣(東久邇宮内閣)の内閣参与も務めました。教育にも熱心に関わり、書籍の印税で数十の幼稚園、保育園、学校、学園を創設してくださいました。
 代議士の父と芸者との間に生を受けました。その両親は4歳の時に亡くなってしまいました。実家の叔父の家に引き取られるも妾の子として冷遇されました。実家の家業と兄の事業も失敗し破産しました。その大変な時期、英語を習いたく宣教師の教会を訪ねたのが彼の生き方に大きく影響を与えました。宣教師のサポートのもと明治学院、神戸神学校、のちにプリンストン大学で学びました。二十歳の時に病気に倒れ余命まで宣告されました。残りわずかな命なら、助けが必要な人の為に何でもしようと決断し、神戸のスラム街で生活を始め、そこから賀川先生の全ての活動が始まり広まったのでした。

産業革命や明治維新、戦争など大きな変化が起きる時、格差社会は加速します。2極化は顕著になりいわゆる勝ち組の総数は少なくなりますがその人達の取り分は大きくなります。そして多くの人は益々大変な状況になって行くのが歴史の教えている内容です。AI革命により激しく変わろうとするこの時代に、優しさと実力を持った次世代の“カガワ”が必要ではないでしょうか。